アスキーとマイクロソフト、Amazonとnote
新卒で入社した会社の創業者の本が出版されたので、読んだらおもしろかった。創業者は西和彦さんで会社はアスキー、本のタイトルは「反省記」という。最近の若い人のなかには、アスキーや西さんを知らない人もいるかもしれない。
西さんには、新卒でアスキーに入社した頃に初台の本社で何度かすれ違ったことがある。あとは初台トーシンビル地下の大会議室で、ひろゆき(西村博之さん)と切込隊長(山本一郎さん)を相手に議論してたのを横目にしたくらいだろうか。
本書の中にも出てくるがアスキーは日本最初のベンチャーとも言われ、一時期はマスコミの常連となり、ある年齢以上のビジネスパーソンならみんな知っている会社だった。
未来に行き過ぎてしまい事業撤退して、ずいぶん経ってから後発の会社に市場をまるっともっていかれたり、個性的なエース同士がケンカしてスピンアウトして事業が傾むきかけたり。自分が入社した時期のアスキーは、そんな状況だった。先見の明がありすぎる、一筋縄でない人たちが集まっていたように思う。
せっかくなので、企業としてのアスキー、つまり「株式会社アスキー」が無くなる前夜の個人的な記憶を残しておく。ここ1年ほどnoteを書きそびれているうちに入社1年のタイミングもすぎてしまったのと、noteで読書感想文コンテストも開催しているので、久しぶりに書くテーマとしてもちょうど良い。
反省記にも出てきたCSKグループからVCに売却された頃、ちょうど2000年代中盤というのは出版業界の再編が始まる時期と重なっていた。M&Aでアスキーはいろいろな会社の子会社になり、2008年4月1日、吸収合併を経て新会社に合流することになった。
週刊アスキーやASCII.jp、専門書籍などの出版・メディア事業は継続するため、ブランドとしての「アスキー」は残ることになったものの、会社としては存続しないことが決まっていた。
2008年3月31日。当時、営業企画部に所属していた自分は流通・営業系のPMI(Post Merger Integration)を担当していた。当時、お茶の水にあった合併先のメディアワークス社に出向しながら、九段下にあるアスキー本社とのあいだを日に行き来する。それなりに忙しい日々をすごしていた。
そんな合併前日の夕方、終業時刻をすぎたころ、青山にあるアスキー創業のマンションに行ってみようと思い立った。今日を最後に株式会社アスキーはなくなってしまう、それなら記念に「アスキー出版」創業の地を見物して記憶に残すのも悪くない。
「南青山のマンション」ということは知っていたが、詳しい場所はわからない。善は急げと、社歴の長い人に聞いてまわると、役員で元月刊アスキー編集長の遠藤さんが知っているという。遠藤さんにわけを話すと「それじゃあいっしょに行こう」と、社内を調べまわっているうちに連れだった何人かといっしょに案内してもらえることになった。
南青山マンション時代の逸話は社内でも語り継がれていた。曰く、ある日、見たことのない外国人がその辺の床で寝ていて、実はそれがビル・ゲイツだった。曰く、風呂場で寝泊まりして何十時間も原稿を書き続けた。曰く、食事の時間がとれないので、原稿を書きながら袋ラーメンに粉末スープをふりかけてそのままバリバリ食べていた。などなど、真偽のほどはともかくとして、聞いてる分にはどれもおもしろい話ばかりだった。
マンションにつくと遠藤さんが「エレベーターより階段が早いんだ」といって、階段を見つけてどんどん登っていく。たしか2階か3階くらいだったように思う。
目当てのフロアに到着すると、部屋の扉が空いていて、ネイルサロンか何かが営業していた。ちょっと離れたところからながめながら「ここでアスキーがうまれたのか」と思った。
自分にとっては意味のある場所だが、ただのマンション。ほかに何があるわけでもなく、数分くらいでアスキー創業の地を後にした。そのあとは、みんなでアスキーのために別れを惜しんでやろうという流れになり、遠藤さんに深夜遅くまでやってる三宿の台湾料理屋へ連れていってもらった。
「自分のアスキーとの出会いは7歳で、FM-7版のザ・キャッスルなんですよ」とか、小遣いを貯めてMS-DOSを買ったことなどを話した。小学校を卒業したばかりだっただろうか、ソフトベンダー武尊で買ったログインソフトのバカスカウォーズが単体で起動せず、MS-DOSが必要になったのだ。MS-DOSはMicrosoft Disk Operating Systemの略で、西さんの本にも登場している。こうしてふりかえるとマイクロソフトとの出会いはアスキーがきっかけだった。そんなようなことを話しながら、みんなで日付またぎをカウントダウンしたことを覚えている。
その後、営業から週刊アスキー編集部に異動して、オンライン版の週刊アスキー「週アスPLUS」をたちあげた。自分に週アスのオンライン事業化を任せてくれた元週刊アスキー編集長のF岡さん(福岡俊弘さん)も本に登場していた。週アス編集者の頃に教えてもらった、西さんと激論を交わしたエピソードがそのまま載っていておどろいた。
週アスPLUSを立ち上げから5年ほど運営して、500万MAUくらいにグロースさせてから、Amazonに転職した。アスキーで知り合った友人が先にAmazonに転職していて、マーケティングやデータ分析が得意でコンピューターが好きなら向いているのでは、と誘ってくれたのがきっかけだった。
(Amazonには日本支社設立後の2000年代前半ころ、アスキーからまあまあの人数が転職している。あまり語られることがないようなので、ここに記録しておく)
AmazonではCITP(Consumer Information Technology Products)Teamに所属し、マーケティングコンサルタントとしてマイクロソフトを担当した。
いつだったか、マイクロソフトに新卒入社したという営業さんとの雑談中に「アスキーは昔、マイクロソフトの極東代理店をやっていたんですよ」と話したことがある。週刊アスキーや週アスPLUSはよく読んでくれていたものの、両社の関係性は知らず、またアスキーマイクロソフトのことも知らなかった。これには年の差を感じたが、まあ、そういうものかなとも思った。
そういえば、去年、Amazonからnoteに転職したきっかけも元をたどればアスキーだ。社長が新卒同期だったので、週アスPLUSでの連載を依頼したり、cakesへの記事提供企画を手がけたりした。
先日には、マイクロソフト出身のメンバーが自分のチームにJoinしてくれた。アスキー出身者とマイクロソフト出身者がnoteでいっしょに働くことに奇妙な縁を感じた。
そして今、noteを書きながらアスキー創業者がアスキーとマイクロソフトについて書いた「反省記」を売っているAmazonへリンクを張っている。これはちょっとおもしろい体験だ。個人的な感覚なので、他の人にはおもしろみが伝わらないというのもまたおもしろい。惜しむらくはMacで執筆しているところか。Windowsマシンを買っておくべきだった。
本書で描かれている月刊アスキー創刊のエピソードは、社内で語り継がれていたとおりだった。西さんたちが創刊した月刊アスキーは、その後も社名を冠した旗艦誌として長らくアスキーの屋台骨を支えた。
その後、2000年代半ば、その役目を週刊アスキーにゆずることになり、2006年10月発売号で新創刊することになった。綴じかたも平綴じから中綴じに変わり、創刊から26年間続いたコーポレートロゴと同じ雑誌のタイトルロゴもリニューアルした。
当時、月刊アスキーの営業企画を担当していたので、流通向けに最終号の申請や手続きをしたり、部数交渉をするのは自分の仕事だった。創刊号から続いたアスキーロゴの最終号を取次に案内すると、各社の仕入担当者から大いに惜しまれた。社名のロゴをそのままタイトルにした月刊誌が書店の店頭から消えるのは、それなりに大きなことだった。
皮肉屋な同僚から「ある意味、月刊アスキーの最後を看取るわけだけど、いまどんな気持ち?」と聞かれたりもした。なんと答えたかまでは覚えていない。
反省記に登場したアスキー出身者のnoteをまとめておく。
アスキー出身で元マイクロソフト副社長の古川さんが出てくる。古川さんはnoteで「私の知ってるビル・ゲイツ」という連載をしている。
元日本マイクロソフト社長の成毛さんも登場する。
本のなかで、CSKの大川会長が西さんに学校をつくれ、と言ったくだりはなんとも言えない納得感があった。アスキーは学校のような会社だったからだ。反省記を読んだアスキー卒業生や周辺にいた人たちのコメントを見ると、だいたいみんな同じような印象をもっていたことがわかった。
note社は外苑前にオフィスがあり、アスキー創業の地から徒歩圏内に位置する。会社帰りに気が向くと、渋谷方面へと足を向けて歩いてみる。表参道交差点をすぎて骨董通りを横目にするあたりで、ちょうど、アスキー創業の南青山のマンションに近づく。「南青山アドベンチャー」や「表参道アドベンチャー」なんてゲームもあったな、などと記憶の引き出しをさぐりながら、青山学院大の正門前を通り過ぎて駅へと向かう。そんなとき、アスキー最後の日を思い出すこともあるが、だいぶ記憶もぼやけてしまった。
前回は人類の未来について、「脳・ロボティクス・魂・テクノロジー・進化・サイバーパンク・宇宙・インターネット」から考える記事を書いたので、今回はIT業界の末端から見たアスキーの景色について書いた。つぎは何を書こうか。